◆ 神とは何か
彼女とともにいると、朧気ながらも神の姿が見えてくる。絶対的なる宇宙と、その中で躍動する人々の理想…
八百万の神々の聖地には、宇宙の起源が封じ込められている。出雲大社御本殿では、国を造り固めた大国主の御前に、別天神(ことあまつかみ)と呼ばれる五柱の神々が立ち並んでいるのだ。
その神々とは、原初に顕れた天之御中主(あめのみなかぬし)・高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かんむすひ)、朧の中に生じた宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこじ)・天之常立(あめのとこたち)。みな生成と同時に身を隠した独神であり、時空間を舞台として顕れる神々とは、その性質を異にする。
そこに対峙する大国主も「神」と呼ばれるが、こちらは、実在の人物に擬して生み出された形代のようなもの。上位を表す「かみ」に、「神」の字が充てられたものと考えられている。
原初の神に実体はないが、理解しようとする過程で宇宙は擬人化されていく。宇摩志阿斯訶備比古遅が良い例で、現在では「宇摩志」「阿斯訶備」「比古遅」と分けて、「まるで」「葦の芽のような」「男神」と解釈する。
けれども、本来は「うましあしかびこひじ」であったという説があり、こちらは、「こひじ」を「泥」の古語であるとして、「まるで」「葦の芽」「泥の中の」と考える。つまり、混沌の中に生じる方向性をここに見て、神名の中に、古代人の世界観を推し量るのである。
「神話生成の過程は、人の視点で世界を解釈し、支配しようとする作業の連続。」
彼女は、そこに顕れる神々を「人々の希望、あるいは欲望」と言って、いつも少し距離を置いていた。けれども、そこに生じる信仰は、不変の「神の法」を垣間見る手段でもあった。
神は、自らの解釈に制限を設けず、人々に「歴史」を綴らせる。今では突飛に見える「大国主の国譲り神話」にも、当時の人々が感じ取った「神の法」が反映されているのだ。けれどもやがて、それら「人の神法」すらも、神に課せられた時の流れの中に飲み込まれていく…
彼女は言う。
「今を生きる人々もまた、連続する歴史の中に立ち、神話の一部を綴り続けているのよ」と。