◆ 愛に捧げた命
毎年必ず参拝に訪れる神社なのだと、彼女は言った。穏やかな東京湾を左手に見ながら南下し、観音崎の手前で右折。
走水神社は、ヤマトタケルの事績を保ち、美しい女性の辞世を伝え続ける神社である。
そこより入り幸でまして、走水の海を渡ります時に、その渡の神、浪を興てて、船を廻して、え進み渡りまさざりき。ここにその后名は弟橘比売(オトタチバナヒメ)の命の白したまはく、「妾、御子にかはりて海の中に入らむ。御子は遣さえし政遂げて、覆奏まをしたまはね」とまをして、海に入らむとする時に、菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重を波の上に敷きて、その上に下りましき。ここにその暴き浪おのづから伏ぎて、御船え進みき。ここにその后の歌よみしたまひしく、
さねさし相摸の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも
かれ七日の後に、その后の御櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき。(古事記)
これは、ヤマトタケル東征に関わる伝承。海を渡ろうとして渡しの神の妨害にあった時、妻のオトタチバナヒメ(弟橘媛)が身代わりとなって海に飛び込んだというものである。ここに、
「相摸で火責めに遭われたあなたは、火の中にあっても、私のことを思って声をかけて下さった…」
という内容の、辞世のはじめとも言われる和歌が歌われる。そして、この和歌を遺した七日後に、弟橘媛の御櫛が海岸に流れ着いたのだ。
その櫛を納めて墓とした場所が、走水神社の北方三百メートルの御所ヶ崎だったという。かつては弟橘媛を祀る橘神社があったが、明治になって砲台となったために、ヤマトタケルを御祭神とする走水神社に合祀。今は、御本殿に夫婦で祀られている。
古くは「奇し(くし)」に掛け、櫛は、神秘を宿すものだと考えられていた。よって、髪を梳かす道具としてよりも、大いなるものを祈念して、常に髪に挿しておくものであった。つまり、黄泉路に伴った湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に見るように、呪物としての性質を有し、玉串のような神の依代としての役割を担ったのであろう。
だが、「くし」の響きが導き出すものは、意に沿った都合のいいものばかりではない。まことに「奇」なるもので、「櫛」は別れをもたらす贈り物だとも言われている。
おそらく、走水の浜辺に流れ着いた櫛は、ヤマトタケルから弟橘媛に贈られたもの。この物語を故事の譬え話としてとらえるなら、敵方に謀略でもってもぐり込んだ弟橘媛は、手にした櫛で敵将を突き殺して果てたのであろう。
本殿の裏に廻ると、かつて「走水の海」と呼ばれた浦賀水道が飛び込んでくる。そして、明治四十三年に東郷平八郎・乃木希典らによって建立された、弟橘媛の歌を刻んだ記念碑が、遠い昔を忍ぶかのように陽を浴びて輝いている。
近年、恋愛成就のパワースポットとして脚光を浴び、今では、参拝客がひっきりなしに柏手を打つ走水神社。彼女は、賑やかな人々を尻目に、身投げの浜から運ばれてきた砂を頂き、
「でもね」
と声を落として、
「祈りは犠牲を伴うことなの…」
と、遠い空を見上げて言うのだ…
⇒ 走水神社