香取神宮(千葉県香取市)

香取神宮(かとりじんぐう)DATA

香取神宮【御祭神】経津主大神(ふつぬしのおおかみ:別名に伊波比主神・斎之大人)

【社格等】延喜式内社(名神大社)・官幣大社(明治四年)・勅祭社・別表神社・下総国一宮

【創建】神武天皇18年

【主な祭典】例祭(4月14日:6年に1度は勅使の参向を受ける)・神幸祭(4月15日)・御田植祭(4月第1土曜日曜:日本三大御田植祭)

【摂末社】側高神社(御祭神不詳)・奥宮(経津主神の荒御魂)・鹿島新宮社(武甕槌大神・天隠山命)・匝瑳神社(磐筒男神・磐筒女神)・大戸神社(天手力男神)ほか

【見どころ】本殿(1700年造営の三間社流造:重要文化財)・楼門(1700年造営の入母屋造:重要文化財)・要石

【場所】千葉県香取市香取

全国400社の香取神社の総本宮であり武人の神

大国主の国譲りの際に活躍する経津主神を御祭神とする。日本書紀本文に、その件が下記のようにある。

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、さらに諸神をつどへて、まさに葦原中国に遣すべき者を選ぶ。みな曰さく、「磐裂(いわさく)・根裂(ねさく)神の子磐筒男(いわつつのお)・磐筒女(いわつつのめ)が生める子経津主神、これ佳けむ」とまうす。時に、天石窟に住む神、稜威雄走(いつのおはしり)神の子甕速日(みかのはやひ)神、甕速日神の子樋速日(ひのはやひ)神、樋速日神の子武甕槌(たけみかづち)神有す。この神進みて曰さく、「あにただ経津主神のみ大夫にして、吾は大夫にあらずや」とまうす。そのことば気はげし。故、以て即ち、経津主神に配へて、葦原中国を平けしむ。

それより先、神生の項で出生に関する記述があり、伊弉諾(いざなぎ)が軻遇突智(かぐつち)を斬った時に十握剣の刃から滴る血が五百箇磐石(いおついわむら)となり、これが経津主神の祖となったとある。
剣に関与する神であると考えられており、一説には、剣で斬った時の「フツ」という擬音が神名になったとも言われている。この神が香取の地に鎮座したことに触れているのが、日本書紀の一書に表れる下記の記述である。

天神、経津主神・武甕槌神を遣して、葦原中国を平定めしむ。時にふたはしらの神曰さく、「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)と曰ふ。またの名は天香香背男(あまのかかせお)。請ふ、先づこの神を誅ひて、しかうして後に下りて葦原中国をはらはむ」とまうす。この時に、斎主の神を斎の大人(いわいのうし)と号す。この神、今東国の檝取之地(かとりのくに)に在す。

古くから、武甕槌を祀る鹿島神宮と関係の深い神社であり、ともに藤原氏からの崇敬篤く、藤原氏の氏社である春日大社には、第一殿に鹿島神、第二殿に香取神が祀られている。
ともに国譲りに功あったことから武神の神として認識され、特に源頼朝以降、武将の崇敬が篤くなった。現在でも武道場には、「鹿島大明神」「香取大明神」の二神の軸が掲げられる。

創建は神武天皇18年と伝わり、882年には正一位勲一等に上り詰めている。延喜式神名帳に「神宮」として掲載される3社のひとつである。国家鎮護・国運開発・民業指導・武徳の神として広く信仰されている。
境内にある「要石」は、鹿島神宮の要石と対を成し、香取神宮のものは凸型、鹿島神宮のものは凹型となって、地震を起こす大鯰を押さえつけていると言われている。

⇒ 香取神宮ホームページ
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