◆ 多面性を抱合する言語
夕焼空を指しながら「きれいですね」と言うと、彼女の天邪鬼が顔を出した。「ねえ、あの色が万人に同じように映るのかしら」と。
彼女は言う。人それぞれに、同じ色を見ても感じ方は違うのではないか。つまり、自分が「赤」と言っている色が、他人にとっては自分の「青」なのではないかと。そして、人それぞれに好きだと言って違う色を指差しても、脳裏に映っている色彩は同じなのではないかと。
なるほど、自由意志の外側で、感受システムの異なりにより個性が芽生え、多様な見方が生まれているのかもしれない。その多様性をつなぎ合わせるために生まれたのが言葉であり、言葉を用いて、ひとは他人を推し量る…
言葉は、他人を知るためにつくられた。けれどもそれは、決して秘められた実体を明らかにするツールではない。故に理解にも限界があり、その無明が、往々にして棘となって他人を刺す。
対立の歴史は、言葉が生み出したと言ってもいいのかもしれない。
「でもね、」と彼女が言う。それを解決するために生み出された言語があるのだと。そして、それこそが「大和言葉」なのだと。
「大和言葉」は、言霊を宿す。言霊の実体は、漠然としたものながら、多くの意を吸引して統合するもの。古来和歌に幸わい磨かれていく中で、多くの縁語を構築して、景色に豊かな彩りを添えてきた。
彼女は「具体例を出すのは難しいけれど…」と言いながら、似たようなものとして「神仏習合」があると指摘した。
かつて、外来の信仰に面して混乱した時、諸神を諸仏に置き換えるという作業がなされた。結果、仏教はその教義をもとに拡散し、かつ上流にあった神道も、その流れに乗って民心を捉えた。
これは、立場が変われば見え方が異なるということを受け入れた先例であり、双方にとってメリットになったという好例である。
「大和言葉」は、シンプルゆえに多義を抱き込み、多方面からのアクセスに「面白み」でもって応える。それは日本人の特徴として表れる「曖昧さ」の根源ではあるが、その曖昧さこそ実は、「多面性」を理解しようとする努力に根差すものであり、協調の礎となって日本を支えているのである。