伏見稲荷大社(旧官幣大社)

◆ 日常を見守り続ける神

 稲荷神社の狐を見つけて頭を下げようとすると、「ちょっと待って」と彼女が止める。「どうして?」と聞くと、伏見稲荷大社千本鳥居
「よく理解して拝まなければ、悔やむことになるわよ」
と。
 稲荷神社には、二つの系統がある。宇迦之御魂(ウカノミタマ)を祀るものと、荼枳尼天(ダキニテン)を祀るものとである。宇迦之御魂は穀物神であり、この系統の神社は商売繁盛などで知られる。荼枳尼天は人肉を食すインドの鬼神で、祈願成就に多大な犠牲を求める。

「そもそも…」と彼女は顔を曇らせて、
「狐を神使とするのは荼枳尼天」
と、妖狐とされた妲己(ダッキ)との結びつきもある、インドの女神の恐ろしさを語る。
「でも…」と僕が口を挟むと、
「安易に願をかけてはならないわ」
と、険しい視線をこちらに向けた。

 宇迦之御魂を祀る稲荷神社の総本社は、京都の伏見稲荷。そこに降り立つと、目に飛び込んでくるのが、神前に立つ立派な狐の像(狛犬)。一般的にはこれを神使と解するが、それでは真の神の姿を見失ってしまう。
 そもそも宇迦之御魂は特殊な神で、古事記では須佐之男(スサノオ)と神大市比売(カムオホチヒメ)の間に生まれた御子神とされる。「御魂」の神名から見るに、実在としてよりも概念的要素が勝る神であり、系譜以外の神話は記載されない。兄である大年神(オオトシノカミ)とともに、太古から常に生活の隣にあった神であろう。
 御名の由来は「ウケ」にあると言われ、「ケ」は「食物」を指し、「ウ」は「得」に通じる。つまり宇迦之御魂は、食物となる作物の生育を司る神であり、「御食津神(ミケツノカミ)」であった。そこから「ケツ」と呼ばれていた「狐」と結びつき、「御狐神(ミケツカミ)」が生まれたのである。伏見稲荷大社お稲荷さん
 もっとも、伏見稲荷大社では妖狐崇拝へ繋がることを危惧し、「稲荷流記」にあるように、狐は眷属との立場を採る。それによると、平安時代に船岡山の狐が稲荷山に参拝し、「眷属となって人のために尽くしたい」と祈願したことに始まるという。

 社の起源という話になると、「山城国風土記」の「伊奈利の社」の条にたどり着く。餅を矢の的としたところ、餅は白鳥となって飛び去り、稲荷山に降りて稲となった。そこに伊禰奈利(イネナリ)として、「稲が成る」の意で社を建てたというから、本来は宇迦之御魂の異名ともされる「保食神(ウケモチ)」の御名で祀られていたものかもしれない。それは、戯れを戒める神でもある。
 今では、商売繁盛を願って多くの参拝客が訪れる伏見稲荷大社。けれども、その中心にある「ケ」に、思いを馳せる者は少ない。「ケ」は、「食」であり「褻」である。そこに隠されているのは、繁栄の真実である。
 この神は、特別なことを受け付けない。実りは常に、怠ることのない日常の延長線上にあるのだから。

 再び彼女は言った。
「心して拝まなければ、悔やむことになるわよ」
と。虚飾を廃し、平凡を厭わないことこそが、人間にとっては一番に難しいことなのだ…

⇒ 伏見稲荷大社(旧官幣大社)



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