タケミカヅチ(建御雷)

国譲りの談判を行った鹿島神宮の神

記紀などにおけるタケミカヅチの神名表記

鹿島神宮のタケミカヅチ【古事記】建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)・建布都神(たけふつのかみ)・豊布都神(とよふつのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)
【日本書紀】武甕槌神(たけみかづちのかみ)・武甕雷神(たけみかづちのかみ)
【先代旧事本紀】建甕槌之男神(たけみかづちのおのかみ)・建布都神・豊布都神・石上布都大神(いそのかみふつおおかみ)・武甕雷之神(たけみかづちのかみ)・武甕槌神
【古語拾遺】武甕槌神
【常陸国風土記】香島大神(かしまのおおかみ)・香島天之大神(かしまのあめのおおかみ)

古事記におけるタケミカヅチの系譜

【父】伊都之尾羽張(いつのおはばり:天之尾羽張・十拳剣)
【子】意富多多泥古(おおたたねこ)?

古事記における主な記述

【黄泉国】伊耶那岐命が、十拳剣(とつかのつるぎ)で迦具土神(かぐつちのかみ)の首を斬った時、その刀の本についた血が湯津石村(ゆついわむら)に走りついて生まれてきた三柱の神の末。
【国譲り】国譲りのために大国主の元に神々が派遣され、ことごとく失敗していたが、思金神(おもいかねのかみ)や諸神の案により、建御雷が遣わされることになった。天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を副えて遣わされると、建御雷は出雲の伊耶佐の小浜(いざさのおばま)に降り立ち、剣を波の上に逆に突き立てて、その上に胡坐をかいて、大国主に国譲りを迫った。すると、大国主は八重言代主と建御名方(たけみなかた)に決断を任せた。八重言代主の了承を得、さらに建御名方を訪ねて行くと、力競べをしようと言うので立ち向かい、たちまちの内に打ち負かした。逃げる建御名方を追って、科野の州羽海(すわのうみ)で殺そうとした時に、建御名方は「葦原中国は天孫に奉る」と言った。さらに大国主の了承を得て、建御雷は天に上って葦原中国を平定したことを報告した。
【神武東征】神武天皇即位前、熊野村で熊に遭遇して、軍が病み衰えた時、高倉下(たかくらじ)が横刀を奉じることで苦境を救った。その横刀は、天照大御神と高木の神が建御雷を遣わそうとした時に、建御雷が「この刀さえあれば大丈夫だ」と言って、天から落とし込まれたものであった。

タケミカヅチを祀る主要神社

鹿島神宮】 茨城県鹿嶋市宮中
春日大社】 奈良県奈良市春日野町

言霊の杜